旧HPからの移転。はじめて「ナヌムの家」を訪れたときの様子。

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最近の出来事(2004年2月特別編)

2004年2月2日(月)~4日(水)……いざ韓国へ「ナヌムの家」へ

2004年2月2日(月)……初韓国,キムチと読書で夜はふける。

 9時の起床であった。

 フラフラと,こちらが立ち上がりもしないうちに,相方が,先にとびだしていく。

 行き先はソウルである。

 仕事の都合が直前になって変わったので,相方は,われわれとは別の飛行機に乗り,

 われわれとは別のホテルに泊まるのである。

 青汁オレンジを体内投入しながら,メールをチェック。

 韓国を案内してもらう李さんと,最後のやりとりをする。

 HPをつくり,いつもの朝昼兼用定食のヨーグルトを,ゴマシューに置き換えてみる。

 いま食べなければダメになってしまう。

 しかし,はっきりいって,あんまりあわん。

 シャワーをあびて,11時20分には外に出る。

 これで11時35分「尼崎」発の空港バスにラクラク間に合う。

 綱渡りの日々ではあるが,なかなか綱から落ちはしない。

 「慰安婦問題の人」から,「朝鮮半島史の人」へと変態しながら,関空に着く。

 12時40分,すでに全員が集まっている。

 こんな時だけ,キチンとしている。

 「ちゃんと1本早いのに乗って,30分に来てくださいよ~」といわれる。

 チケットを受け取り,手続きをすませて,いったん解散。

 コーヒーを飲みながら「半島史の人」をつづけ,李さんへのお土産にとカチコチの煎餅セットを買っていく。

 韓国には,同じようなお菓子はあるのだろうか。

 2時45分,JALは予定どおりの離陸であった。

 学生たちに「慰安婦問題」についてのコピー資料をくばるが,どうも人気はないようである。

 すでにアタマのなかは,買い物と食べ物と遊びでいっぱいか。

 3時20分には,いつものブロイラー作戦が展開され,あわただしくジュースとおつまみが配られる。

 これを残さず食ってしまうところに,我が身のブロイラー化があらわれている。

 日韓併合くらいからの歴史しか知らなかったが,中国との朝貢関係,半島内部の対立,朝鮮国の長期安定など,

 多様で複雑な歴史を初めてアタマにいれていく。

 4時40分,仁川空港にドッスンと着陸である。

 荷物を受け取り,両替を行い,ツアーのガイドさんと落ち合う。

 「若い女の人ばっかりで,男の人が1人なので,社長さんかと思いましたよ」。

 いつものことだが,この集団はやはりあやしく見えるらしい。

 いや,そう見られてているのは,こちら1人なのかも知れないが。

 それにしても,いったい何の社長か。

 謎は深まる。

 4年前につくられたばかりのこの空港は,「世界一長い建物」としてギネスにも認定されているらしい。

 その種の小ネタが学生の口からとびだしてくる。

 外はキッパリとした寒さだが,風はなく,雪も少ない。

 バスでソウル市内へと向かう。

 タクシー,地下鉄,バス,スリなど,ガイドさんによって,各種の注意があたえられる。

 背の高くない山が,葉を落とした木々におおわれている。

 なんだが,景色は,千歳から札幌に向かうあたりに似かよっている。

 6時30分,市内の免税店に降ろされる。

 ガイドさんの指示にしたがわなければならないところが,この「ツアー人生」のつらいところである。

 それでも,幸運なことに,頼まれてきた土産をみつけて,サッサと買い込む。

 そして,時間をもてあまして外に出る。

 路上で,警官をはさんでケンカである。

 交通事故のようだ。

 ブラブラ歩くと,なんともうまそうな地元密着型の食い物屋がたくさんある。

 無理に日本語で書いて,まちがっているものもある。

 バス停にバスがはいってくると,人々がわれ先にと,乗車口へ殺到する。

 なんだか,生きた人間の「活力」のようなものを感じさせられる。

 7時には免税店を出る。

 7時半,やたらと立派なラディソン・プラザ・ホテルへ。

 「卒業旅行なので,ホテルはちょっといいとこにしてみました」。

 旅行係のいっていたとおりである。

 すでにロビーでまちかまえていた相方と合流。

 「明日の『ナヌムの家』はどうするか?」

 こちらのこの提案に,じつは,学生たちもはっきりこたえを出さずに来た。

 「楽しい卒業旅行を韓国で」というのが先に決まっていたから,そのあとで「ナヌムの家」といわれてもつらいところだろう。

 結局は,別行動をとることになる。

 相方と2人で,夕食をとりに出る。

 「プチチゲの有名な店」だとガイドブックにあったが,「キムチチゲしかない」といわれる。

 情報がすでに古いのかも知れない。

 しかし,やすく,うまく,あたたかく食べる。

 お互いに外見の違いがあまりわからないので,ありがちな「店のなかで妙に注目される」ということもない。

 そのあたり,実に,気がラクである。

 筑前煮のような野菜の煮物,カブのキムチ,豆もやしのナムル,

 ノリ,出汁をとったあとなのだろうか小さなイワシのつくだに。

 そんなところが,ズラズラならんで,ビールとキムチチゲが登場する。

 “Hite” と書かれたビールはやや甘口で,キムチチゲはたいして辛くない。

 例のカネのハシと,カネのスプーンで食べていく。

 8時すぎには店を出る。

 ブラブラと「明洞」の街を歩いてみる。

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 大きな道路が「歩行者天国」のようになり,路上には,たくさんの屋台がならんでいる。

 ある案内には,このあたりは「観光特区」とあった。

 なるほどと,納得してしまうほどのにぎわいである。

 屋台で,イカの足を買う。

 プレートであらためてあたためてくれたイカは,ハンバーガーなどをくるむ三角の紙にほうりこまる。

 粉チーズ風味の,ちょっと甘い香りがした。

 9時30分には,ホテルにもどる。

 なにせ,本番は明日である。

 風呂につかり,本を読み,コンビニで買った焼酎を飲んで,12時すぎには眠りにつく。

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 三橋広夫『これならわかる韓国・朝鮮の歴史Q&A』(2002年,大月書店)を読み終える。

 100ページちょっとの小さな本だが,原始から今日まで,

 とても読みやすく,半島の歴史がまとまっている。

 特に,大陸と日本からの侵略の危機につねにさらされながら,いかにして海外とのバランスをとるか,

 その工夫と苦労の歴史がわかり,なるほどと思わされる。

 そんな感心をするあたりに,こちらの「島国」育ちがあらわれている。

 池明観『韓国・民主化への道』(1995年,岩波書店)を読み終える。

 「今日の東アジアを学びたい」といったときに,知人が「韓国についてはこれを」とすすめてくれたもの。

 明治維新以後の日本の進出と侵略があり,大戦のあとには大国による国家の分断と朝鮮戦争がつづき,

 さらに南北の民族と家族の分離のうえで,南北双方に独裁国家がつくられていく。

 その苦難の歴史のなかで,多くの犠牲をはらいながらの南の「民主化」の過程が描かれる。

 それは,現在進行形の過程だが,軍事独裁政権との闘いの深刻さには,あらためて驚かされる。

 

2004年2月3日(火)……行ってみたかった「ナヌムの家」へ。

 5時に目があいてしまい,6時まで「南北対話の人」となる。

 寝なおして,再び起き上がってみると,世間は早くも9時30分。

 すでに学生たちは外に出ているのだろう。

 シャワーをあびて,あわてて下に降りる。

 10時をすこしすぎたところで,梨花女子大の卒業生であり,2002年には本学に留学していた李多恵さんと会う。

 結局,こちらは相方との2人だけ。

 李さんは,たくさんの学生がいるのだろうと待っていてくれた。

 すまない。肩すかしで。

 「ナヌムの家」に行くにはまだ早い。

 そう判断して,国立民族博物館へ。

 「景福宮」のすぐ脇にある建物で,そこまで地下鉄に乗って移動する。

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 地下鉄は700ウォン(約70円)と安くなっている。 

 博物館は,時間がないのがもったいなかった。

 あちこちに日本語での解説もある。

 青銅器の剣・鉾は,出雲あたりに出るものと素人目には,まるで同じにみえる。

 小さな銅鐸もある。

 土器は「櫛目文土器」の名にふさわしい文様だが,中には縄文式も出てくるという。

 海峡をへだてた海の交流は活発だったようである。

 青銅でつくられた貨幣も展示されている。

 中国の短命だった「新」政権のもの。

 円形方孔のもので,方孔部が大きい。

 これは日本の福岡あたりからも出土しているという。

 大陸の影響がストレートに入ってくる半島文化のダイナミックさを感じさせられる。

 後ろ髪をひかれる思いで,あわただしく博物館をあとにする。

 小学生から高校生くらいまでの子どもたちが,外に,たくさん列をなしている。

 「社会見学」といったとこだろうか。

 外に出ると,見事な青空をバックに,中国の水墨画にあるような,ゴロリとたてに長い山がみえる。

 「溶岩の粘度が高いのでそうなるのだ」と,相方が豆知識を披露する。

 「この先に青瓦台(大統領府)があります」と李さんがいう。

 なるほど,今もなお,ここは政治の都ということか。

 

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 仁寺洞通りを歩いていく。

 骨董品や,古文書などがならぶ,文化の通りである。

 そこで「カルククス」という麺類を食べる。

 日本語では無理やり「あさりうどん」と書いてある。

 3人分が,1つの白い大きな陶器のうつわに入ってテーブルに出てくる。

 これを,先割れのやや深めのおたまで自分のさらにすくって食べる。

 ちょっと深めの「さら」であって,日本で見るおわんのような器には,このあとどこでも出くわさなかった。

 ゴロゴロ入ったあさりの出汁がよくでている。

 そして,麺は細めのうどんのようであり,しかし,ラーメンのような粘りも感じられる。

 なかなかのものである。

 もちろん,キムチもうまい。

 腹が満ちたところで,「ナヌムの家」へと,移動を開始する。

 地下鉄,バス,タクシーと,思っていたより随分時間がかかってしまう。

 まずは地下鉄「鍾閣」から「市庁」へ。

 そこから「蚕室」へ。

 ケータイの普及率は日本より高いと聞いていたが,李さんの手には,見た事がないほど小さなものが。

 相方と李さんが,おしゃべりに花をさかせる横で,黙々と本を読んでいく。

 「これがオリンピック橋」「ここがロッテワールド」。

 最後に乗った,「ナヌムの家」へ向かう,タクシーのメーターには馬が走っていた。

 クルマが走ると馬も走り,クルマがとまるとウマもとまる。

 おもしろい。

 3時10分,「ナヌムの家」に到着。

 静かなところである。

 白い元気のいい犬が2匹でお出迎え。

 事務所に入ると,日本人スタッフが2人もいる。

 こちらが見ていたHPは公式のものではないという。

 ちなみに,ただしくはここ。「ナヌムの家」。

 日本女子大から梨花女子大に留学中で,「昨日ここに来たばかり」という学生が1人。

 そして,じっくりと案内をしてくれた「もともと写真家なんですよ」という男性「やじま」さん。

 「局長」の肩書をもつ安さんも,気軽にこえをかけてくれる(韓国語で)。

 コーヒーをいれてくれて,「どうして今日は学生は来ないの」と,ざっくばらんに話がはじまる。

 ひとここちついたところで,ビデオを見せてもらう。

 『私は忘れない』という,日本でつくられた短いビデオ。

 97年に亡くなった,カンドクキョンさんの追悼番組である。

 ・16才で強制的に「慰安婦」とされた。

 ・「慰安所」でできた子どもは,のちに孤児院で死んでしまった。

 ・結婚はしなかった。

 ・日本政府が「従軍慰安婦問題にかかわっていない」とウソをつくのがゆるせず,自分が「慰安婦」だと名乗り出た。

 ・日本政府は民間の基金をつくってごまかしをはかっている。

 ・彼女は「慰安婦問題」だけでなく,広く女性への性暴力をなくす国際的な取り組みに参加したという。

 手元の走り書きのメモには,そんな言葉が残った。

 ビデオが終わったところで,先の「やじま」さんが歴史館を案内してくれる。

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 ・92年ソウルに「ナヌムの家」は始まった,95年にここへ移転し,98年にこの歴史館が出来た。

 ・入口と出口の大きなレリーフが,ハルモニたち(元「慰安婦」のおばあさんたち)の「現実」と「未来」を表現している。

 ・「現実」は涙をながす女性が,「菊の紋章」(天皇家の紋章)からとびだす銃剣にからだを貫かれている。

 ・出口の「未来」は,伝統的な朝鮮の結婚式の衣装を来ている自分たちの姿。

 実に対照的であり,そこにハルモニたちのかかえる苦悩の深さと,未来にこれをくりかえしてはならないという決意がみえる。

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 歴史館の中に入る。

 ・91年に,自分が「被害者だ」という韓国での初めての告白があった。

 ・この強制の事実を歴史に残さなければとの思いからである。

 ・92年,日本の歴史研究者・吉見氏が,防衛庁の資料の中から,政府・軍による「強制」に関する資料を見つける。

 ・ハルモニたちは,1人1人に対して1枚ずつ公式の謝罪文書を渡すことを求めている。

 壁には,慰安所が確認されている東アジア一帯の地図がある。

 ・「慰安所」は日本軍がいた各地にあり,日本国内にもあった。

 ・沖縄では134ケ所が確認されており,釧路,松代(長野),大阪などにも。

 ・中国には,「解放」後もそこに暮らしつづけて,半島に帰らなかったハルモニがいまも生きている。

 ・政府・軍が強制連行し,くりかえし性暴力をうけた女性たちを「日本軍『慰安婦』」と呼んでいる。

 ・「従軍」というのは,自らすすんで加わったという意味であり,正しくない。

 ・国連は“sexual slave”などの用語をつかうが,この言葉にはハルモニ自身に反発を感じる人もいる。

 ・しかし,英語表記はこれに統一している。

 ・韓国では「女子挺身隊」と呼ばれたが,これでは労働奉仕と区別がつかない。

 ・この写真には,「慰安所」の前にならぶ兵隊たちの姿がある。

 自分のセックスの順番を待って,笑っている兵士。

 関係する写真の1枚,1枚が重く語りかけてくる。

 ・1932年に上海につくられたのが,資料に残る最初の「慰安所」。

 ・最初は日本人のプロの「売春婦」がつかわれている。

 ・「慰安所」をつくる理由を軍はいろいろいうが,実際に,性病・現地でのレイプ・反日感情抑制には効果はなかった。

 ・唯一効果があったのは兵隊の士気のみ,これは軍としての作戦の一環だった。

 ・シベリア出兵時にも「慰安所」があったが,これは軍が直接管理するものではなかった。

 ・そこで性病がひろまったことが,軍による管理の形態へと踏み切らせたといわれている。

 ・1937年以降,「慰安所」は急増する。それで国内のプロの「売春婦」だけでは足りなくなった。

 ・そこから特に朝鮮人の「活用」が広まる。

 ・なぜ朝鮮人からの理由のひとつは,日本政府による土地の奪い取りで朝鮮人の生活が貧困化していたこと。

 ・ふたつは,すでに日本の公娼制が朝鮮にもちこまれていたこと。

 ・みっつは,朝鮮人への差別。

 ・「関与」といった曖昧なものでなく,日本軍自身がこれを「管理」していことについては,資料もある。

 関係資料の写真やコピーも展示されている。

 つづいて,再現された,ある「慰安所」の中に入る。

 こういう施設をハルモニたちの生活の場でもあるここにつくることにはいろんな意見があったという。

 しかし,訪れる人に知ってもらうことの大切さを,ハルモニたちも優先したと。

 ・ここは性の強制の場であり,同時に生活の部屋でもある。

 ・女性の性器洗浄のための消毒液をいれた洗面器がある。

 ・1人で1日に30~50人を相手にすることもあった。

 ・人数が多いと意識がもうろうとし,気がつくと自分の尿と兵隊の精液でベッドがベタベタになっていたということもあった。

 ・1つの部屋を布切れで区切って3人が強制されたこともある。

 ・トラックのなかで,テントのなかで,南では大きな葉でくぎっただけで,さらには洞窟で。

 ・ビルマではお寺も「慰安所」にされている。

 ・日本軍は「慰安所」をいろいろに呼んでいるが,そのなかに「衛生的公衆便所」という呼び名がある。

 ・「衛生的」というのは軍が管理しているから性病の心配がいらないということ。

 ・「公衆便所」というのは,そのまま「慰安婦」を精液を吐き出す道具としてしかとらえていないということ。

 ・「慰安婦」は,性以外にも,食事・洗濯・看病など,あらゆる労働に従事させられている。

 ・殴られる,けられるも日常で,いまここにいるハルモニの何人かも日本刀の刀傷をもっている。

 再び,いくつかの資料の前で。

 ・軍のこの資料では,「営業時間」は朝の9時から夜の12時までとなっている。

 ・記録には10代の女性も多い。

 ・なぜ10代かというと,当時は純潔イデオロギーが強く,未婚女性には性病の危険が少ない。

 ・それと,「処女」は兵士が喜ぶという理由から。

 ・ここには「支払い」につかわれた「軍票(軍用手票)」や「クーポン券」も残っている。

 ・しかし,それらは「慰安所」の経営者の手にわたり,実際には「慰安婦」たちはほとんど何もうけとっていない。

 ・それらは「慰安所」の経営者が集め,その数で1人1人の「働き」を管理する道具にもされた。

 ・着るものをつくらせて,それを借金にさせ,その支払いのために働かせるということも行われた。

 ・当時の軍の配った「サック(コンドーム)」の実物がここにある。

 ・沖縄で見つけられたものである。

 ・45年8月15日を光が回復した日として「光復節」というが,「慰安婦」たちは素直に喜ぶわけにはいかなかった。

 ・カンボジアの「慰安所」におかれ,その後も長くそこに暮らしたハルモニもいる。

 ・何万,何十万の「慰安婦」たちのすべてについては,ほとんど全容がわからない。

 ・軍の機密がもれる,「慰安」の事実を隠すために,逃げるのに足手まといだからと,殺されたり,置き去りにされた例が多い。

 ・「慰安婦」の管理者名簿を焼却せよという軍の命令書もある。

 ・もはや,事実はこれを体験した生存者の証言のなかにしかない。

 新しいコーナーへ移動して。

 ・扶桑社の「新しい歴史教科書」には「慰安婦」の記述がない。

 ・それが文部省の検定をとおったことで,他社の教科書に影響をあたえ,記述のない教科書がふえている。

 ・実際に現場でのこの教科書の採用が少なくても,そういう「効果」が出てきている。

 ・かつての軍隊体験の一部として,個人が「慰安婦」をなつかしく,しのぶ調子で本をだすこともある。

 ・ここにも,資料としておいてある。

 ・日本の政治家たちの「暴言」の一覧表もある。

 ・「『軍』慰安婦募集」という朝鮮での新聞広告もある。

 ・識字率が低く,女性に新聞を読む習慣がなかったことなどから,これは実質的には「人集め」の業者や担当者への呼びかけだった。

 ・1948年には,戦後のバタビア(いまのジャカルタ)の軍事法廷でオランダ人「慰安婦」にかんする裁判が行われた。

 ・いまのインドネシアはオランダ領だった。

 ・セマランの「慰安所」の裁判で,関係した日本人には死刑をふくむ判決がくだり,実際1人は死刑になっている。

 ・これが唯一の裁判での「勝利」例。

 ・ただし,アジア人の被害者については,この種の裁判結果は1つもない。

 ・この裁判には,戦勝国による裁判であったということ,また白人によるアジア人への裁判であったという人種問題もある。

 ・日本政府がつくった「基金」を受け取るかどうかをめぐって,「慰安婦」たちにも意見の対立がある。

 ・受け取ったハルモニをせめることは出来ないが,それで政府の公的責任を曖昧にするわけにはいかない。

 ・ここには「歴史修正主義者の活動年表」もある。

 次のコーナーで。

 ・「純潔イデオロギー」が強い時代であり,「慰安」の経験がその後の被害者にあたえた精神的苦痛は深刻である。

 ・1972年には沖縄でくらしていたハルモニが,72年の施政権返還をきっかけに「自分慰安婦だ」という告白をする。

 ・しかし,これをバックアップした団体に朝鮮総連があったため,韓国内ではあまり話題にならなかった。

 ・これが「慰安婦」自身の告白としては最初のもの。

 ・このハルモニの場合には,あるインタビューにこたえる時に,10分に1度ずつ手をあらっている。

 ・「身の汚れ」を意識してか,過度の潔癖症だったと思われる。

 ・91年に沖縄で亡くなっており,その直後に,韓国で最初の告白がある。

 ・梨花女子大の元教授が,日本各地を活発にまわって調査をしていた。

 ・80年代後半にはその結果についての執筆もあり,それが91年の告白につながる土壌ともなった。  

 ・91年に最初に告白したキムハクスンさんは,日本政府やマスコミのウソを知って名乗り出た。

 ・彼女は17才で日本兵にレイプされている。

 ・過去を知らねばならない,未来にくりかえしてならないとの気持ちで名乗り出た。

 ・92年1月8日から,毎週水曜日に日本大使館前で集会をしている。

 ・7つの要求をしているが,14年間で1つも実現していない。

 ・民主党・共産党・社民党が通称「慰安婦」法案を準備している。

 ・しかし,国会の力関係を考えると,いまのままでは成立のメドはたたない。

 ・立法措置による解決をもとめる動きは,日本にこれだけ。

 ハルモニたちのかいた絵の前で。

 ・心理療法として絵画教室を行ってきた。

 ・ハルモチたちは多くが教育を受けられず,文字で自分を表現できない人が多い。

 ・その表現を絵をとおして行っている。

 ・目隠しされた「ヒロヒト」の処刑の絵を,日本のマスコミは「処刑されているのは誰か」と聞くこともできなかった。

 ・外国人記者の質問に「昭和天皇・ヒロヒト」と,ハルモニははっきりこたえている。

 ・日本のマスコミの天皇タブーのあらわれだ。

 ・チョゴリを来た若い女性たちが船にのっているが,軍の記録にはこれを「補給品」と記録しているものさえある。

 ・どこへいかされても女性たちには「日本名」がつけられた。

 ・「創氏改名」とはまったく別の名前。

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 われわれ,たった3人だけに,実にていねいに説明をしてもらうことができた。

 以上はあくまでも,こちらの手元に残ったメモの再現である。

 「メモ」についても「再現」についても,責任はすべてこちら(石川)にある。

 より正確に,より詳しく知りたい方には,次の本をおすすめしたい。

 「歴史館」の解説を,本のなかで行うものである。

 ナヌムの家歴史館後援会編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』(柏書房,2002年)。

 歴史館の出口で,これをふくめて何冊かの本やパンフレットを買う。

 そのために,ウォンへの両替は,あらかじめ多めにしておいた。

 事務所でもう1度,お茶をいただく。

 兵役としてここで奉仕活動をしている青年が,恥ずかしそうに日本語で自己紹介をしてくれる。

 大学では日本について学び,サザンのファンでもあるそうだ。

 入院している1人のハルモニのお見舞いにでかけていたハルモニたちがかえってくる。

 すぐに食事の時間で,お会いできたのはお1人だけだが,どういう顔をしていいのか困ってしまう。

 いま思えば,「いっしょにがんばりましょう」ということだろうが,

 しかし,声は出なかった。

 5時30分,タクシーを呼んでもらい,「ナヌムの家」をあとにする。

 学者として,自分に何ができるだろうか。

 ハルモニたちのためだけでなく,あわせていまとこれからの社会のために。

 いろいろと考えさせられる。

 「今日はこなかった学生たちにもよろしく」。

 「また,連絡しますから,学生たちに来てもらってください」。

 これらの言葉も重く,残る。

 現代日本のジェンダー分析を課題とする3年生ゼミに,これは,どういかすことができるだろうか。

 しばし,メモを見つめて考える。

 タクシーを降り,バスに乗り換え,さらに地下鉄に乗って,ソウルへもどる。

 地下鉄は「江辺」から「乙支路入口」へ。

 あいかわらず本を読みながらの移動である。

 にぎやかな市街地に入り,7時20分には,李さんに紹介してもらった「カルビ屋」さんに入る。

 昨日も見かけた,店の前の大きな釜でゴハンを炊いている店である。

 李さんは,今度は国費で京大の大学院に行くらしい。

 たいしたものである。

 「慰安婦」問題については,高校でそれをテーマにした演劇をした経験があるともいう。

 テーブルの上には,7つも,8つもキムチが出てくる。

 そして,たくさんの「機能野菜」。

 ようするに健康促進に役立つ野菜ということらしい。

 これにくるんで肉を食べる。

 「12種類の豆でつくった」という味噌もうまい。

 マッコウリを3人で飲む。

 竹筒にたかれたゴハンもおいしい。

 9時前には,この「明洞」の街で李さんとおわかれする。

 しっかりした気性の人だと思った。

 たった11時間のおつきあいだったけれど,彼女がいなければ「ナヌムの家」には到底いけるものではない。

 お世話になりました。

 どうも,ありがとう。

 そして,李さんを紹介してくれた,金さんにもありがとう。

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 ホテルにもどり,韓国焼酎を片手に,焼肉の香りを落とすべく長風呂の体制に入る。

 「北朝鮮論の人」となり,12時30分には,グッタリと寝る。

 森千春『朝鮮半島は統一できるのか』(中公新書ラクレ,2003年)を読み終える。

 新聞記者として長く韓国にもいた著者が,朝鮮の「統一」にはっきりと焦点をあてて書いた現代政治史。

 「体制」と「民族」の相剋が,南北双方の側から様々に描かれる。

 同一民族という意識の意外なほどの強さと,そこから生まれる「統一」への願いの強さをあらためて知らされる。

 それが「体制」の論理に優越する側面もあると。

 「分断」がもたらす悲劇の深さであろうか。

 呉善花『韓国人から見た北朝鮮』(PHP新書,2003年)を読み終える。  

 これは南北両社会をどうとらえるかという社会論として,非常に刺激的だった。

 いわゆる「李氏朝鮮」の500年をこえる体制。

 そこにつらぬかれた儒教(朱子学)の精神。

 それが,今日の北にも,南にもつらぬかれ,「体制」のちがいにもかかわらず,両社会には非常に近しいものがある。

 他方,日本に対する侮蔑の意識も「李氏朝鮮」の「中華思想」にもとづくと。

 日本の植民地支配によって侮日が始まったのではなく,その根は,思想的にはるかに深いという。

 現代の半島事情を知ると同時に,あわせて東アジアの未来を考えるうえでも刺激的な本である。

 

2004年2月4日(木)……あっという間に日本へもどる。

 7時30分,目ざましの音で立ち上がる。

 シャワーをあび,コーヒーを飲み,8時すぎにはフロントへ。

 ただちに出発となる。

 ガイドさんが先日とかわっており,あらたに同行メンバーも出来ている。

 バスの中で,しばしの観光案内。

 これは,どうも「お土産屋」まで,われわれを眠らせないための作戦らしい。

 それでも,昨日来た「景福宮」が,どうやら「李氏朝鮮」スタートの宮殿だということを初めて知る。

 ほう,なるほどそうだったのか。 

 ということは,朝貢していた中国の使いたちがここに,大きな顔をしてやってくることもあったのだろう。

 ところどころにいる,いかつい男たちは,青瓦台を警護する「私服警官」だそうだ。

 「私服になったのは最近です」。

 9時すぎには,「お土産屋」に到着し,「さあさあ,このキムチをお食べなさい」という多角的な攻撃を受ける。

 たしかに,手元に半端なウォンを残す必要はない。

 その金額にちょうどみあった「たこキムチ」を買う。

 もちろん酒のサカナである。

 眠そうにしている学生たちに聞くと,かれらが寝たのは4時だという。

 よほど楽しいことがあったのだろう。

 そういう体験が,これからの日韓関係づくりに役立つこともあるかも知れない。

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 10時には,仁川空港に到着。

 コートを脱げ,クツも脱げ,上着も脱げというキビシイ,セキュリティ・チェックをうけて,あとはしばらく自由となる。

 昨日買ったばかりの「ナヌムの家の人」となる。

 12時半には,ドヤドヤと飛行機に乗る。

 発着ともに,少し遅れたようだ。

 キムチのかけら以外は何も食べておらず,今回ばかりはJALの機内食がありがたかった。

 それにしても,ちらし寿司とクロワッサンと果物という,あのとりあわせはなんとかならないものか。

 2時15分には,関空に着陸。

 旅行係より「解散」のおことばが発せられる。

 「先生とはほとんどすれちがいでしたが」と,みんなでお金をだしあってくれた「おめん」をもらう。

 研究室の「ヘンなものコーナー」に置いとけ,ということであろう。

 ありがとう,みんな。

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 3時すぎには,空港バスに乗る。

 車中「ナヌムの家の人」となって,「尼崎」へ,「加島」へ。

 4時20分には帰宅する。

 相方は,すでにもどっている。

 ナヌム・ショックで夕べは一睡もできなかったらしい。

 メールをチェックし,FAXを打ち出し,郵便物をあけていく。

 そして,この旅行日誌を書いていく。

 それで,世間は早くも8時半。

 卒業していくみんな,おつかれさま。

 この旅行でお世話になったたくさんのみなさん,ありがとうございました。

 楽しくも,収穫の多い旅行でした。

 9時には,土鍋メシを炊き,「たこキムチ」をバクバク食う。

 そして,録画しておいた,「上沼」「ごきブラ」あたりをながめていく。

 「日常」の再開である。