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最近の出来事(2004年9月特別編)

 2004年9月16日(木)~18日(土)……4年生ゼミ旅行で沖縄へ!

「首里城」「米軍基地」「ヘリ墜落現場」「うまいもの」

 

2004年9月16日(木)……沖縄へ,いきなり「ひめゆり資料館」へ。

 朝は8時40分の起床であった。

 おっと,予定より,ちょっと遅いぞ。

 いつもながら,あわただしくメールをチェックし,HPを書き込んでいく。

 青汁オレンジからヨーグルト投入へとうつって,シャワーをあび,10時には外に出る。

 もちろん,デジカメの電池は確認してある。 

 JR「加島」から,10時20分にはJR「伊丹」へ。

 駅構内で,手に手にメモ帳をもった,たくさんの小学生たちとすれちがう。

 何かの授業なのだろう。

 階段をあがると,今度は,時折「尼崎」でも売っている,「沖縄ドーナツ」の売店に出くわす。

 「いや,いまから現地にいくから,今日はいい」とサクサク歩く。

 外の歩道橋をおりると,なにやらの大きな石碑の前に,

 今度は,手に手にメモ帳をもった年輩ハイキング者集団にぶつかる。

 1人が説明し,それをまわりで熱心に聞いているという風である。

 ここからタクシーに乗ると,10分ちょいで大阪空港(伊丹)についてしまった。

 早すぎる。

 そのまま土産物売り場にあがり,沖縄へもっていくお土産を買う。

 「平和ガイド」の学生さんへの土産である。

 「神戸チョコ」というコジャレ路線と,「大阪プリン」というコテコテ路線をミックスさせてみる。

 わがゼミ生たちの内的構成からしても,これは妥当な判断だったと思う。

 11時の集合時間に余裕で間に合い,

 学生たちに「なぜ遅刻じゃないのか」と不思議がられる。

 「今日も,スマンとかいってくると思ってたのに」。

 総勢11名が集合し,旅行係の手配で,すばやく飛行機のチケットが配られていく。

 それにしても,たった2泊の旅行になぜ,そのようなバカデカ・トランクが必要なのか。

 世の中には,不思議なことがあるものである。

 セキュリティに何人もがひっかかりながら,それでも,12時には,無事に空へと舞い上がる。

 機内「戦後沖縄の人」から,「サ条約の人」へと変身していく。

 いいかげん,時間がたって,

 そろそろ着陸体制かというところで,おとなりにすわったおかあさんに,

 「沖縄黒飴」を1つもらう。

 窓側のおかあさんたち二人が「出入り」するたびに,

 通路側のこちらが席を立つなどしていたことへの「お礼」である。

 ありがとう。

 おかあさんの手には,中学校の同窓生リストがあった。

 いまから集まりがあるのだろうか。

 2時前には,那覇空港に無事着陸する。

 はじめてタラップというもので下に降りる。

 降りたところから,「エアーバス」とかいうシロモノで,到着ロビーにはこばれる。

 中型バスによるピストン輸送である。

 とはいえ,乗車時間はものの5分程度か。

 空港を出て,今度はレンタカー屋までのマイクロバスに乗る。

 途中,バスから外の景色をながめていく。

 空には夏のような青空がひろがっている。

 しかし,湿度はひくく,

 まだ強さの残った日差しが直接,肌にあたってくる。

 そんな具合の気候である。

 ジトジトせずに汗が出る。

 「OTC」とかなんとかいうレンタカー屋に到着するが,なんだか,おそろしく混み合っている。

 最近になって,初の電車(モノレール)が走ったばかりの沖縄である。

 クルマなしでは行動できない。

 そこで,たくさんのレンタカー屋があり,それぞれたくさんの台数を確保しているはずなのだが,

 なぜか手際が悪い。

 早くも「沖縄時間」への遭遇か。

 ずいぶんと,長く待たされる。

 そのあいだ,手続きは学生たちにまかせて,ブラブラとレンタカー屋の周辺を歩いてみることにする。

 おお,すぐ近くが航空自衛隊の基地であった。

 なつかしのロッキードF104らしい(?)飛行機が,金網のなかの敷地に展示されている。

 ずいぶん昔に,北海道の千歳空港の自衛隊基地で見たような気がする。

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 柱の上にシーサーがいる小さな建物があったので,なんだろうと思って近づいてみると,

 公衆トイレであった。

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 ほう,こんなところにまで。

 良くみると,壁にもなにやら絵が描いてある。

 飲み物の自販機には,やたらとデカイ缶がならんでいる。

 ペットボトルが少ないのである。

 また,事前に本で読んでいた「クリームソーダ」を発見する。

 アイスクリームは入っていないが「クリームソーダ」と言い張るシロモノなのである。

 しかし,缶が大きすぎるので,買わなかった。

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 「まだ,しばらくかかりそうなんですよ」「1時間も待たされて怒っている人もいるんですよ」と,

 学生情報が入ってくれる。

 おお,それは困ったことだ。

 「先生,ひめゆり行きたいでしょう」「先に行っててもいいですよ」「あとから追いかけますから」。

 なるほど,「ひめゆり平和祈念資料館」の開館時間は5時30分までである。

 「スマナイッ」という思いを残して,

 学生2人と「先発隊」として出発する。

 タクシーの運転手さんと,少し話をする。

 そうか,那覇空港は民間と自衛隊との共有だったのか。

 レンタカー屋のすぐ前を走っていたモノレールは「ゆいレール」という名前で,空港から首里城までの軌道らしい。

 走りながら,カーキ色の軍服,ヘルメットに身をつつんだ自衛隊のジープと何度かすれちがう。

 関西では,見ない光景である。

 4時20分には「資料館」に着く。

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 沖縄地上戦で,「野戦病院」にかりだされた幼い少女たちが,

 戦場で命を落とし,軍の「解散命令」で見捨てられ,

 「自決」を強要されて死んでいく。

 生き残った人は,ホンのわずかである。

 その人たちも,戦後長く,

 「なぜ自分だけが生き残ってしまったのか」という「負い目」の気持ちにつぶされつづけたという。

 この資料館は,その「同窓生」たちが中心になってつくられたものである。 

 当時の全員の顔写真がならんでおり,ホントウに若かったことがわかる。

 「幼い」ということばの方が的確である。

 侵略戦争拡大の地図などをながめていく。

 そうか,石油があったのは,インドネシアともう1つ,ビルマだったのか。

 生き残った方の証言テープが流れている。

 「兵隊さんが『天皇陛下万歳』といわずに,『オカアサン』といって死んでいった」

 「どうしてなんだろうと思った」

 「それまで教えられていたのは,まるでちがった」

 「ワタシたちは,教育によってつくられた軍国少女だったんです」。

 「病院」とは名ばかりのガマ(洞窟)のなかで,兵隊たちの傷口のウジをとり,

 大怪我をした兵隊の手や足を切断し,水を飲ませ,食事をさせる。

 飛行機の機銃掃射の下,毎日,ガマの外へ水や食事をとりに走らねばならない。

 「それが当然のつとめだと思っていた」とも。

 館内には若い見学者が多い。

 3分の2くらいは,10代,20代の人たちだろう。

 見かけのイカツイ兄ちゃんたちも,神妙な顔をして,あれこれを見ている。

 時間に追われながらではあったが,本を2冊ほど買って,外に出る。

 外の「ひめゆりの塔」には,たくさんの献花が積み重なっている。

 目の前でも,若いカップルが,花をたむけていた。

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 「沖縄戦殉職医療人の碑」も。

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 後からレンタカーでやってきた学生たちも,40分くらいは見ることができたらしい。

 閉館の5時30分には,「資料館」をあとにする。

 クルマを東へ走らせ,「斎場御嶽(せーふぁうたき)」へ。

 大雑把な地図と,クルマのナビ,そして頻繁なケータイ連絡をかさねて,

 暗くなりかけた現地へ,3台のクルマはどうにか到着。

 「御嶽」とは「沖縄の聖地」であり,この「斎場御嶽」は「琉球王国最高の聖地」である。

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 「王国」時代には,王族の女性が最高位である「聞得大君(きこえおおきみ)」につき,

 王とともに大きな権力を行使したという。

 さまざまな祭事が行われたようで,足を踏み入れることができたのは霊力がある「巫女」さんだけだった。

 霊力は,王国時代の戦争でも,勝利の祈りとしてつかわれたらしい。

 貴重な植物も多い「山」の聖地で,「世界遺産」に登録されている。

 山を降りて,次第に暗さが増すなか,那覇市内にもどっていく。

 ヘッドライトがハイビームにしかならないという,でたらめなクルマであるが,

 仕方がないので,ドンドン走る。

 8時10分には,予約していた沖縄料理の店「苗」に到着。

 すべてを学生たちが手配するので,まったくもってこちらは気楽な気分である。

 ラフテー,ミミガー,ゴーヤ,海ぶどう,もずくといった,定番の料理をしっかりと食べていく。

 全員,昼食をまともにとっていないので,食欲は実に旺盛である。

 食べるスピードに,つくるスピードが追いつかない。

 ちょっと甘めのオリオンビールが,ピリリと辛い島とうがらしにマッチする。

 もちろん「泡盛」様にも。

 就職活動,沖縄の歴史と文化,日本社会の課題なども,話題になる。

 10時20分には,コンビニで明日の朝食をそれぞれ調達。

 11時すぎには,宿の「沖縄ホテル」に到着する。

 学生たちは5人部屋2つにわかれたらしい。

 ホテルの入口には,R命館大学K済研究会の看板がぶらさがっていた。

 なんだか,昔なつかしい名前である。

 NHK2つと,琉球放送,琉球朝日,沖縄テレビ。

 テレビ・チャンネルはそういう構成になっていた。

 コンビニで買った,「久米仙」のワンカップを飲む。

 泡盛のワンカップとは,じつに沖縄らしい。

 1時すぎには,グースカ眠る。

 佐々木隆爾『サンフランシスコ講和』(岩波ブックレット,1988年)を読みおえる。

 戦後,すべての交戦国との「全面講和」でなく,親米国家のみとの「単独講和」がすすむ。

 それは「講和」の名による,新しい戦争の準備であった。

 「冷戦」のなかで,日本はアメリカの東アジア最大の軍事基地と位置づけられ,

 沖縄はその中心拠点として日本から切り離される。

 戦後日本の政治と経済を考えるとき,この瞬間にアメリカが何をねらい,

 日本の支配層が何を受け入れることで,戦後も支配層でありつづけることの保障を手にしたのか,

 そこをしっかりとつかんでおく必要がある。

 

2004年9月17日(金)……首里城から,戦跡へ,米軍基地へ。 

 今朝は,10時30分の集合である。

 これくらいの時間だと,ゆとりがあって遅刻者はいない。

 こちらもヨーグルトとコーヒーの朝食はとりおえた。

 6時すぎに起き上がって,すでに海に行ってきたというメンバーもいるらしい。

 まったくもって,元気な連中である。

 学生が,さっそく朝刊の「お悔やみ欄」をながめている。

 「沖縄のお悔やみ欄はとても大きく,たくさんの人が毎朝それをチェックしている」

 そんな話が夕べの食事で出たのである。

 30代とおぼしきフロントマンが,気さくに話かけてきてくれる。

 「ワタシも月に2回くらいは葬式にでています」

 「クルマのなかにはいつでも黒いネクタイがあるんです」と。

 話は,墓の形の違いから,死生観の違いにも及ぶ。

 そんな文化の相違もじっくり味わいたいものだが,しかし,今回は時間がない。

 用意ができたところで,「首里城」へと出発する。

 周辺にせまっただけで,あちこちの駐車場が満杯である。

 小学生から高校生まで,遠足や修学旅行の子どもたちの姿も多い。

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 ここは,かつての「琉球王国」(1429年から1879年)のお城である。

 そして,近くは「沖縄地上戦」において日本軍の司令部がおかれた場所でもある。

 戦争で完全に焼け落ちたこの城が復元されたのは1992年のことだという。

 思っていたより,かなり大きい。

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 「守礼門」や「歓会門」など,いくつかの門の名前は,朝貢していた中国皇帝のつかい(冊封使)を歓迎するためのものだという。

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 いわゆる「冊封体制」のもと,琉球王国の王は,交代のたびに中国からの「承認」をうけ,

 同時に,たくさんの贈与品を受け取っていた。

 王国にとって,この中国からの贈与品は,第三国との貴重な交易の手段ともなった。

 海に孤立した国ではなく,広くネットワークをひろげた国であったわけである。

 さらに「瑞仙門」「漏刻門」「広福門」から,「奉神門」をくぐって,やっとメインの「御庭(うなー)」に出る。

 この城全体の中心をなす広場である。

 「冊封使」を招いての重要な儀式も,ここで行われたのだという。

 「南殿・番所」に入り,展示を見る。

 現在の展示は,戦前の首里城の姿を残す,たくさんの写真であった。

 戦争によって破壊される前の姿がそこにある。

 独特の服をまとった庶民の暮らしも見えている。

 国王の政治の場であり,祭事の場であり,生活の場でもあった「正殿」にあがってみる。

 正面の,もっとも大きな建物である。

 全体のつくりは,中国は北京の紫禁城をまねたものだという。

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 1Fが政治の場であり,2Fが祭事の場であるという。

 海外からの旅行客も目につく。 

 天井はそれなりに高いが,今は,はずされているふすまの背丈が高くない。

 どうも,そう大きな人たちではなかったようである。

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 最後に,展示・映像・売店などがならぶ「北殿」をあるいて,終わりにする。 

 小高い山の上にあるため,町を見下ろした景色がキレイである。

 遠くに海も見える。

 本を3冊ほど買い込み,学生たちがゆっくりと見学しているあいだに,子ども向けの1冊を読み終える。

 絵や写真が豊富で,文章が簡略化された本というのは,

 ものごとの全体像を一挙にとらえる入門書として格好である。

 1429年までに,尚巴志が沖縄を統一する。

 1609年,薩摩が3000名の軍を送り,琉球王国を征服する。

 1853年,ペリーが艦隊をひきいてやってくる。

 1879年,日本政府が王を首里城から力づくで排除し,「沖縄県」を誕生させる。

 古代から,戦後まで,興味深い史実がならぶ。

 この本を買ったお土産屋には,「ドルがつかえます」との表示があった。

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 1時には,クルマにもどる。

 学生たちは,ほぼ全員が免許をもっているようである。

 どうも持っていないのは,こちらとあと1人くらいらしい。

 しかし,おそろしいのは,その学生たちのほとんどがペーパーだということである。

 ここで,はやくも電信柱に,後ろをあててみる。

 かわいい傷がついたが,「そんなことは,返す時に,レンタカー屋と交渉すれば良いこと」である。

 那覇市内にもどる。

 昼食は全員,「沖縄そば」と決められている。

 2時には,基地見学のガイドさんと会わねばならない。

 11名がいっしょの店に入るのは無理との判断で,クルマごとの「そば探索」とする。

 国際通りにクルマをとめ,店をさがすが,これが,なかなか見つからない。

 あっても満席だったりする。

 モノレールの下の交差点までやってきたところで,

 何のうちあわせもないのに,3人の学生が三方に散った。

 「そば」屋をさがすために,三方に走る人間の姿を見送ったのは,これがはじめてである。

 野に,くさ(忍者)をはなった殿様の気分であった。

 しかし,汗をながした成果はなく,

 結局,「ここはちょっと」といっていた牛丼屋「どん亭」に,入ることにする。

 牛丼屋だが,カレーもあれば,「そば」もあるという店である。

 2人が「沖縄そば」をたのみ,2人が「ソーキそば」をたのむ。

 だが,両方はどう区別されるのか,メニューの写真を見てもラフテーの量以外に区別がつかない。

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 はこんできてくれたオネエサンに聞いてみるが,「よくわからない」との回答であった。

 なんということだ。

 ともかく,大急ぎで「そば」を流し込み,コリコリと軟骨のうまいラフテーをかじっていく。

 ここでも,島とうがらしを入れて,後頭部から汗をながしてみた。

 約束の2時に10分ほど遅れて「沖縄ホテル」にもどる。

 すでにガイドさんのA嶺玲子さんは,ロビーで新聞をひろげていた。

 「沖縄時間」では,ないらしい。

 ガイドさんは琉球大学の3年生で,多くは修学旅行生を相手に「平和ガイド」をしているという。

 大学では戦時期の沖縄史を勉強しているのだという。

 あいさつをすませ,さっそく「今日のコース」を説明してもらう。

 「嘉数高台」「沖縄国際大学」「嘉手納基地」「読谷」へと,時間のゆるす限りまわってみることにする。

 しかし,こちらはクルマの運転がかなりあやしい。

 したがって,そう多くはまわれないだろうと,最初から予想がつく。

 A嶺さんのクルマもあわせて,4台の平和見学クルマ部隊となる。

 まずは宜野湾市嘉数高台公園へ。

 高台をあがり,さらにその上の展望台にあがると,大きな米軍飛行場・普天間基地が一望できる。

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 先日,米軍のヘリが墜落した沖縄国際大学も,すぐ近くに見えている。

 平原や荒野のなかの空港ではなく,民家の密集地帯のど真ん中にある基地である。

 まわりに危険が及ばぬわけがない。

 「基地は戦争のためにあるのです」。

 あたりまえの言葉が,胸にひびく。

 大きな輸送機が北へ向けて,飛び立っていった。

 やはり,不気味な光景である。

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 A嶺さんは,基地の全容がわかる新聞をひろげて,解説をしてくれる。

 あわせて「ここは,戦後が見えて,戦争も見える場所なのです」とも。

 戦後の米軍支配だけではなく,

 沖縄地上戦の際に,この高台は,北谷・読谷から上陸した米軍を迎え撃つ最前線の基地でもあったのだそうだ。

 そういえば,昨日の「ひめゆり資料館」で,幅4キロに渡る激烈な攻防がつづいたとあったが,

 その激戦の北端が,このあたりだったような気がしてくる。

 死傷者は数えきれず,たくさんの慰霊碑がたっている。

 「京都の塔」の碑文が,読み上げられる。

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 全体として,「兵隊は良く闘った」という「戦争美談」調の碑文が多いなか,

 この碑文は,戦争の悲惨,非戦闘員の悲惨にふれる数少ないものになっているという。

 「戦争は兵隊の戦争だけでなく,住民の戦争でもあったのだ」と。

 「地上戦は鉄の暴風とも呼ばれました」。

 「鉄の暴風」とは,雨あられと降り注ぐ鉄の玉のことである。

 その「暴風」のすさまじさを伝えるものとして,すぐ近くに「トーチカ」が残されている。

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 「トーチカ」というのは,大砲や大型の機銃をすえ,そのまわりをコンクリートでかためたミニ要塞である。

 これが,米軍の攻撃でボロボロにくだけている。

 コンクリートから鉄の棒も突き出している。

 学生たちの何人かは,後ろから中に入っていた。

 あわただしく高台を降り,次は,沖縄国際大学へ。

 大学の1号館横に米軍のヘリが墜落し,炎上した,その場所を見る。

 まわりには特設のフェンスがはられ,警備員が配置されている。

 焼け焦げた木が立ち,校舎の階段部分が,3Fまで焦げている。

 落ちたヘリの大きさは,ローターの直径が25メートルにもなる。

 A嶺さんが,カバンのなかから,25メールのヒモを出して,ひろげてくれた。

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 空中で機体がバラバラになりながら落ちたため,近くの民家にも破片がとびこんだという。

 破片でふすまに大きな穴のあいた民家の住人が,小さな赤ん坊をかかえて新聞のインタビューに答えている。

 「大きな音がして,墜落してくるのが見えたので,子どもをかかえて外に出た」と。

 事故の直後,「琉球新報」「沖縄タイムス」は事故問題一色となり,基地問題・日米関係一色となる。

 しかし,事故翌日の「朝日新聞」のトップ記事は,ナベツネの引退であった。

 「この落差には,あらためて驚かされました」とA嶺さんはいう。

 「沖縄の闘いへの本土の連帯は必ずしも十分ではなかった」

 「沖縄への基地の集中は差別の構造でもある」という,読みかけの本の文章がアタマにうかぶ。

 沖縄国際大学は私立の大学だが,事故直後にかけつけた米軍は,大学にも無断でまわりの木を切り,

 警察等による現場検証も拒否して,ヘリを基地に持ち去った。

 それはやはり対等な国家間の関係ではない。

 「従属の苦難をいつまで沖縄におしつけるのか」。

 そのことが強く問われている。

 かけつけた米兵たちが防護マスクをつけた完全装備で現れ,

 それが,このヘリによる放射能汚染の可能性をも暗示させたという。

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 事故現場前のフェンスには,学生自治会たちの横幕がでていた。

 たくさんの「支援の声」が,落書きされている。

 つづいて,進路をグッと北にとり,北谷(ちゃたん)町へと向かっていく。

 途中,道路にふえた「Yナンバー」は,米軍のクルマなのだそうである。

 たしかに,イカツイ兵隊や,その家族と思われる人の運転するクルマがふえている。

 ある学生は「横にならばれただけで,なんとなくコワイ」といっていた。

 たんなる観光旅行であれば,そうは感じなかったかも知れないが。

 目についた中古車センターでも,クルマの値段は円とドルの両方で表示されている。

 北谷町の砂辺地区でクルマをとめる。

 住宅街だが,あちこちにクシの歯が抜けたように空き地がある。

 いくつかの植物がうえられているが,

 実は,これが基地の騒音を逃れてでていった住民たちの生活のあとだという。

 いわば防衛庁の出張所である那覇防衛施設局が,

 出て行く住民の土地を買い上げ,そこにいくつかの植物を植えているのだという。

 「騒音問題は基地を撤去することによってでなく,住民を撤去することによって解決する」

 「これが日本政府の姿勢なのです」。

 このあたりの騒音は90~95ホンに達し,95ホンになると一時的な難聴状態になるという。

 また,騒音のひどい地域にすむ子どもたちは,話し声が大きいという特徴もあるのだという。

 さらにクルマを走らせて,「安保の矛盾が見える丘」にあがってみる。

 目の前にひろがるのは,ベトナム爆撃の一大拠点となり,イラクへの出撃にもつかわれている嘉手納基地である。

 この丘は,かつての日本軍の飛行場を米軍が拡張し,その際に出た土砂でつくられたものだという。

 米軍の監視行動をしている人たちが,その名をつけたという。

 爆撃機と見られる不気味な飛行機が降りてくる。

 たった1機で,大変な騒音である。

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 滑走路は全長4キロと,関空などと同じく,最長級になっている。

 それだけ,重いものをハラにつめて飛んでいるということである。

 「むこうに見える飛行機の格納庫は1つが4億円です」

 「それが16ケあります」

 「これらは『思いやり予算』でつくられたものです」。

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 日本国民や沖縄県民のための教育・社会保障費は削りながら,

 こういうところに政府の金がつかわれている。

 政府の金とは,われわれの税金である。

 そして「思いやり予算」は,支払うことに条約上の義務がない,完全な「プレゼント」である。

 嘉手納町全面積の83%がこの基地であり,

 さらに嘉手納基地は,沖縄市,嘉手納町,北谷町の3つの自治体にまたがっているという。

 「沖縄には米軍の専用空域があります」

 「ほぼ沖縄全土を覆っていますが,その嘉手納ラップコーンは半径80キロ,高さ6000メートル」

 「この空域を民間機がとべるのは,高さ300メートルまでだけです」

 「明日,飛行機で帰るときにぜひ体感してください」

 「飛び上がってしばらく飛行機は低い高度をとびつづけます」

 「それは米軍の専用空域に入らないためなのです」。

 文字の上では知っていたことだが,それを自らの生活の苦悩として体験している人に語ってもらうことで,

 五感をつうじた理解が深まる。

 「ありがとう」。

 たくさんお礼をいって,お別れする。

 やはり,読谷へいくゆとりはなかった。

 いっしょに夕食をとる予定だったが,それも,今回は残念なことにできなくなってしまった。

 「ワタシのガイドにはまちがいがあるかも知れないので,ぜひ自分で調べてみてください」。

 1学年下の3年生にそういわれたことが,わが学生たちにも刺激になる。

 そうあってほしいと思う。

 帰りは高速道路をとばして,30分もかからず那覇市内へ。

 市内には渋滞があったが,それでも8時30分には,夕食の場を見つけあてる。

 国際通りをすこし脇に入ったあたりである。

 学生たちのあいだには,「運転する人がいるのだからみんな飲まない」という不文律があるらしい。

 しかし,こちらはそんなことは,もちろん気にせず,

 オリオンビールをグビグビと飲む。

 あ~っ,うまい。

 そして,山羊の刺身をコリコリ食べる。

 さすがに沖縄でも,やはり山羊は冷凍である。

 しかし,考えてみれば,そう毎日,近場で山羊をシメルわけにもいかないか。

 「沖縄のイメージがすっかりかわった」

 「海と青空のイメージばかりだったけど」。

 食べながら,自然にそんな言葉も口から出る。

 9時30分には,みんなでお土産屋に突入する。

 買い物ができるのは,この時間だけなのである。

 あれやこれやと買い物をする。

 泡盛の小瓶も買ったし,ミミガーやラフテーも買った。

 「やまとんちゅーには食えない」といわれる山羊汁に出会えなかったことだけが心残りである。

 次回を期したい。

 駐車場にもどり,クルマに乗り込むさいに,クルマを降りてきた米兵たちに声をかけられる。

 無視してクルマに乗り込むが,

 「品のない米兵」

 「あんなのがいっぱいいたんじゃやってられないわ」と声が出る。

 それが沖縄市民の日常であることを,やはり肌に刻む必要がある。

 11時にはホテルにもどる。

 テレビをつけると「探偵ナイトスクープ」が流れていた。

 心が一足先に関西にもどる。

 つづいてながめたニュースからは「プロ野球スト決定」の知らせがとどく。

 ヤクルトの古田会長が出演している。

 12球団が11に減れば,当然,野球選手たちの雇用問題が起こってくる。

 「来期12球団」を選手会がのぞむのは当然である。

 また日常的には球団経営に口を出すなといっておきながら,

 いざ「経営困難」となれば選手たちを最大の犠牲者とする,

 その経営者の姿勢が問われるべきも当然である。

 古田会長の疲れた顔は,テレビをとおしても痛々しいが,

 しかし,節をまげずにがんばってほしいと思う。

 じつは,日本の労働運動におけるストライキの件数,損失日数,参加人員のピークは70年代前半である。

 同時に,その頃こそ,賃上げ率が最高を示した時期でもあった。

 はたらく者が団結して経営者と闘う姿を,多くの国民には,しっかりと思い起こしてもらいたい。

 どこかの部屋の年輩アホバカ夫婦の怒鳴り声が,遅くまでひびいて,眠れない。

 夫婦ゲンカはうちに帰ってからにしてくれ。

 たくさんの泡盛のコマーシャルが流れていることに,夜遅くなってから気づく。

 首里城研究グループ『子どものための首里城いろいろ知識』(首里城公園友の会,1992年)を読みおえる。

 琉球の貿易ルートは,日本,朝鮮からインドネシアまで。

 大きな貿易船をつくる技術が,首里城の建築にもいかされたという。

 縄文時代はあったが,弥生時代の影響は小さく,古墳時代はなかったそうだ。

 山下洞人(3万2000年前),港川人(1万8000年前)にはじまる,その歴史の全体にも興味がひろがる。

 

2004年9月18日(土)……パイナップル・ハウスは,ショボかった。

 今朝の起床は7時である。

 う~ん,今朝は眠い。

 こんなに朝が早いのは,レンタカーの返却時間である10時30分までに,

 「パイナップル・ハウス」を断固として見に行くのだという,学生たちのやたら元気な計画のため。

 ナビの調子がわるいが,それでも,どうにかヤマ勘で「ハウス」にたどりつく。

 30分も早くついてしまったので,その前の自衛隊基地をバックに写真をとる。

 基地の入口にも,シーサーはいる。

 なかなか健気なヤツである。

 9時になって,ようやく「ハウス」の入口があいた。

 試食用に山ほどのパイナップルが積み上げられている。

 たしかにうまい。

 しかし,3つも食べれば,もう十分。

 あとは,ほとんどたんなる「土産屋」。

 「パーラー」になっているという2Fには,あがる気もしなかった。

 途中でジイチャン,バアチャンの旅行グループが,ドドドドッと入ってきたので,外に「非難」することにする。

 学生たちを残して,まわりをブラブラ歩いてみる。

 ポツリ,ポツリと小雨が落ちるが,ザーッと降るような気配でもない。

 大きな川の北側に,ビルのならんだ那覇の街並みが見える。

 9時45分,クルマに集合。

 10時すぎには空港に到着。

 ここで,レンタカー返却組と,空港待ちぼうけ組の2手にわかれる。

 こちらは,空港内の本屋に入り,沖縄関連本をさぐっていく。

 旅行客しか入らないような,こんな小さな本屋であっても,郷土史コーナーはしっかりとあり,

 沖縄戦については,特に立派な写真集がならんでいた。

 ここでも,いくつかの本を買っていく。

 しばらくして,レンタカー組も無事もどってくる。

 多少の傷は保険で処理されるので,どうということもなかったようだ。

 結構,結構。

 12時すぎには沖縄を離陸。

 「しばらく高度が低いというのを確認してから寝ようと思って」。

 そういっていた学生も,30分後には,寝息をひびかせる。

 たしかに,家や船が大きく見える時間がずいぶん長くあったように思う。

 雲の高さにとどいたのは,沖縄本島を離れてからであったろうか。

 機内「在日米軍の人」から「琉球の人」となり,「戦後補償の人」となる。

 7ケ国だと読んだ覚えのある戦後の準賠償国が,この本では10ケ国となっている。

 調べて,ゲラをなおさねば。

 多少のウトウトを乗り越えつつ,2時すぎには伊丹の大阪空港に無事着陸となる。

 空港内で,「卒論かけよ」と一声残し,とっとと解散とする。

 2時40分にはJR「伊丹」へ。

 途中,沖縄ナンバーのクルマに目がとまる。

 注意して見れば,こんなところにも,そんなクルマがあるのである。

 3時には「加島」に到着。

 出かける時には工事がはじまったばかりだった,マンション入口のドアが,

 すでに自動ドアにかわっている。

 以前のものは,風の強い日に開きづらく,事故のもとになると考えられたものである。

 ここの管理組合の活動は実に的確である。

 さて,これにて,この夏の大型フィールド・ワークはすべて終了。

 ともかく,いまはハラがへった。

 またしても,朝昼抜きの1日であった。

 そして,食えば,食ったで眠くなる。

 そんな人生への逆戻りである。

 梅林宏道『在日米軍』(岩波新書,2002年)を読みおえる。

 新書だが,ズッシリと重く情報のつまった本である。

 日米安保の歴史から,在日米軍の具体的な構成,彼らの活動の実態,

 市民の生活を脅かす米軍優先の法体系,基地による環境汚染,米軍機による被害など。

 アメリカの「情報公開法」を活用して,独自に資料を分析したという。

 長年の研究の積み重ねが見える,手堅く,視野の広い本である。

 佐久田繁編『琉球王国の歴史』(月刊沖縄社,1999年)を読みおえる。

 古代の海底遺跡群(2万年前?)から,琉球王国の終わりまで。

 薩摩藩による沖縄侵略,中国清朝の冊封使による薩摩支配の黙認,

 阿片戦争による中国半植民地化のショック,

 日本開港の拠点としてペリーが那覇を選んだこと,

 どれもこれも知らなかったことばかりである。

 人間,歴史は学んでおくものである。