1時すぎには、「ナヌムの家」に到着となる。

 白犬たちの居場所が変わっている。

 トイレやシャワーが、若干つくりかえられている。

 「ナヌムの家」にも、少しずつ変化が起こっているようである。

 日本人スタッフの村山さんと、1年ぶりのあいさつをかわす。

 簡単な打ち合わせをするが、

 ショックだったのは、次の言葉。

 「去年は4人のハルモニに証言ができましたが、

 今年は2人だけなのです」

 「体調をくずしているハルモニが多くて」。

 ハルモニたちに残された時間は、本当に少ない。

 あらためて、その事実の重みを痛く感じさせられる。

 1時40分から、村山さんが「ナヌムの家」の紹介を語ってくれる。

 そして、カン・ドッキョンハルモニの追悼ビデオ「私たちは忘れない」を見る。

 2時30分には、庭に出る。

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 最初は、各種施設の紹介である。

 住込職員は現在4名、ハルモニたちの生活の場、

 事務所、いくつかのお墓、追悼碑など。

 入口と出口の大きなレリーフの解説の後、

 「日本軍『慰安婦』歴史館」に入っていく。

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 「従軍」という言葉、「慰安婦」という言葉の不正確さとともに、

 なぜこの歴史館が「慰安婦」という言葉を使っているかの

 歴史的な事情も語られていく。

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 資料や現地調査によって確認された「慰安所」は、

 400ケ所を大きく超えている。

 太平洋地域では、いまも発見がつづいており、

 この地図の範囲には、すでに入りきらなくなっている。

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 メモをひらいて、解説の言葉を書き込んでいく学生たち。

 すでに知っている事実は多いのだが、

 その事実が、どういう意味をもつかをカラダで感じることは、

 本で学ぶこととは別である。

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 モデル的に再現された「慰安所」の中。

 「慰安婦」は「鮮ピー」、「慰安所」は「鮮ピー屋」などの言葉で

 呼ばれることが多かった。

 「ピー」というのは、中国の俗語で、

 女性の肛門や性器を指した言葉である。

 もちろん、そう語ったのは日本の兵士たちである。

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 ここには、こわくてなかなか入ることができない。

 中には、ドッと涙をあふれさせた学生もいる。

 気持ちが耐えられなくなり、座り込んでしまう学生も出る。

 だが、それを受け止めようとする学生たちの姿勢は変わらない。

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 日本社会が「終戦」と呼ぶ、1945年8月15日を、

 韓国では「光復の日」と呼んでいる。

 数十年に渡る日本の軍事支配に終止符が打たれた

 喜びに満ちた記念の日ということである。

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 アジア各地の教科書があり、日本の「つくる会」の教科書もある。

 壁には、日本の政治家たちの「妄言」一覧の表もある。

 過去、日本の国会には、

 民主・共産・社民3党による「慰安婦」の問題解決にむけた法案が

 7度出されているうそだが、いずれも廃案となっている。

 衆参ねじれ国会で、そこにどのような変化が出るか、

 他方、少なからぬ靖国派をかかえた民主党がどう動くものなのか、

 そうした話もされていく。

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 戦時中、朝鮮で発行されていたある新聞の広告の一部。

 当時の女性の多くは字が読めない。

 これを読んで行動したのは、

 女性をかき集める側の人間である。

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 戦後、長く、韓国に暮らした元「慰安婦」ペ・ポンギハルモニの遺品。

 ペ・ポンギハルモニが亡くなった直後に、

 韓国でキム・ハクスンハルモニが立ち上がる。

 誰が意図したのでもない、歴史の連続がそこにある。

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 何度も見てきたハルモニたちの絵の原画がならぶ。

 天皇ヒロヒトを木にしばりつけた、

 有名な「責任者を処罰せよ」は、この左上にある。

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 長い時間をかけてまわった歴史館の出口には、

 ゼミの先輩たちがつくった本がならんでいた。

 少しでもお役に立てれば、さいわいである。

 そして、いま、この問題についての取り組みの手を

 ゆるめるわけにはいかないと思う。