6月30日、夕方4時前には外に出る。

 JR「加島」から「尼崎」へ、「神戸」へ、

 車中「現代資本主義の人」となって移動する。

 成長の中で、姿をかえ、過去の自分を否定しながら、

 しかし、自分自身にとどまるもの。

 そういう存在を理論的にとらえるには、

 どういう方法が必要だろう。

 「現代資本主義論」の問題は、

 結局、ここに回帰する。

 「神戸」の喫茶店で、マルクス講座のネタ整理。

 「国家的諸銀行/大貨幣貸付業者/大高利貸したち

 とを中心とする信用制度は・・・

 この寄生階級に、単に産業資本家たちを

 大量に周期的に破滅させるだけでなく、

 危険きわまる方法で

 現実の生産にも干渉する途方もない力を与える

 --しかもこの一味は、生産のことはなにも知らず、

 また生産とはなんの関係もない」。

 『資本論』の未完の信用論の箇所である。

 マルクスが、1870年代の資本主義の大きな変化に感づき、

 その全体を見届けぬ間は、

 これを刊行しないとした領域の問題。

 結局、マルクスはこの変化を見届けることができなかったが、

 それ以前の段階にあっても、この卓見。

 「金融危機」を引き金とした過剰生産恐慌という、

 08年世界経済危機を見通したかのような文章である。

 現実世界をとらえるこれほどの深みは、

 いったい何によってつくられたのか。

 そこを突き詰めないと、いけないのだろう。

 さて、そろそろ「弁士」会場への移動である。