7月16日(土)、夜は、野菜・しゅうまい蒸しに、

大ぶりのトマトサラダなどが補足され、

こちらとしては主食不要の状況となる。

とはいえ、新参は、カレーうどんをゾゾゾゾゾ。

先週のダーウィンやペンギンズをながめ、

今夜も、風呂で大遊び。

そして、布団に入ってYOUTUBE。

やはり「大怪獣バトル」に落ち着いていく。

グデリと寝たのは、10時前。

内田先生が、ブログに『若マル』

韓国語版への序文を書かれている。

例によって「なるほどなあ」の文章である。

より良い社会づくりの根本は、

ようするにまっとうな大人を育てること。

そのためにマルクスがひとつの教養として

大切な役割を果たす。

以上については、まったく同感。

こちらも、同じ趣旨のことを

ヘタクソな文章で書いてきた。

その上で、新しい宿題として

受け止めたいと思ったことは、

マルクスが「読まれなくなる」以前に、

マルクスは本当に読まれていたのかという問題。

特に、60年代「学生運動」の「知」の実態は、

何人かの「時代の思想家」によるもので、

マルクス自身じゃなかったのでは、と。

この点は、あの時代の「総括」や「挫折」を語る人で

「よく読んでいますね」という人に出くわしたことがない、

わが身のせまい体験にもよっている。

あえていえば、抽象的で未熟な初期マルクスへの

自身の「独創的」な読み込みが多いという印象。

もし、そうであれば、それらの人々がマルクス自身を、

後に受け継がれるべき「知」として位置づけることは、

そもそも無理だったのではないかと。

戦後の日本社会におけるマルクス受容史の問題。

「マルクス主義者」の歴史や思想史ではなく。

さて、実際は、どうなのだろう。

明日は、花鳥園あたりが、お出かけ候補地となっている。

また暑いのかなあ。