7月21日(木)は、10時半起床の朝であった。

深夜に、「書評原稿なおしの人」となり、

「改良と革命の関係」などと、つぶやいてみたりもして、

ふたたび眠りついたのは、一体何時であったのか。

ともかく、相方と新参はすでに、

それぞれの日常に飛び出している。

こちらは、青汁豆乳ドリンクをクピリ、

コーヒーカプリで、パソコン前へ。

テレビのハードディスクが一杯なので、

「ペンギン」やら「魔女」やら「ゲド」やらを、

ザクザクと新参DVDに落としていく。

同時に、「メールカシャカシャの人」となり、

やはり「社会主義」論の「報告」依頼について、

「う~」とか「あ~」とかうなってみる。

自治体問題研究所から、

「本の出版が間に合いました」と連絡がある。

担当してくださった名嘉さん、ありがとうございました。

今度、ビールでもやりましょう。

はげしく素麺をすすった後、

2時半には、山ほどのゴミをもって外に出る。

普通ゴミ、プラゴミ、ペットボトル、ビンと缶・・・

それぞれ置き場が、キチンと決まっている。

JR「加島」から「西宮」へ、大学へ、

車中「スケジュール確認の人」となって移動する。

メモ帳にカリカリまとめていくが、

やるべきことの多さに、いささか唖然。

それでも、健気に、3時から学科の専門部会に参加する。

今日の担当は宮田道昭先生である。

「幕末における日中交流の一齣」というご報告で、

サブタイトルは「幕府の上海派遣船の事例」。

維新直前の1862年、

日本人51名が2ケ月ほど上海に駐留し、

中国との貿易や友好関係の樹立も展望しながら、

上海の人々の日常と交わっていく。

その具体的な交流の内容が紹介される。

なるほど、そういう歴史があるわけだ。

日本側のメンバーには、

西欧の支配を受ける中国の「弱さ」への批判とともに、

そこに生きる人々への共感や愛情が、確かにある。

これに加わった、名倉予何人(あなと)は、

後に日清修好条規(71年)の成立に深くかかわった。

しかし、日本外交はその後、「脱亜入欧」へ

大きく舵を切っていき、その過程で、

名倉は外務省を追われる結果になったという。

4時半には、事務室であれこれを受け取り、

研究室にこもっていく。

各種書類をながめ、必要事項をカレンダーに加え、

関連のメールをガシガシガシ。

机の上においたままだった

本学の『学報』もながめていくが、

中野敬一先生が、学生をつれて

「平和学習 in 沖縄」に行かれたというご報告がある。

ひめゆりや平和の礎だけでなく、

嘉手納や普天間の現場にも。

おお、「行動する宗教人」である

(キラ~ン、あらためて敬意のまなざし)。

つづいて、この春、着任された

総合文化学科の若手3人組はじめ、

教職員のみなさんの「ごあいさつ」をながめ、

さらにページをめくっていくと

『マルかじり』の「新刊紹介」に出くわして

「おっとっと」。

高橋雅人先生が書いて下さっていた。

そういえば、「どなたに書いてもらいますか」と尋ねられて、

「高橋先生」と、適当に(失礼!)こたえた記憶がある。

しかし、この適当は実に「適切」であったらしい。

ごていねいな紹介の上、最後は「芸」まで褒めいただき、

まったくもって、ありがとうございました。

明日の団交に向け、前年度の組合関係資料もサラリとながめる。

ゼミの韓国学習旅行にかかる費用の見積もり比較もやってみる。

さあて、ハラもへったし、ボツボツ帰るとするかあ。

冷凍庫の温度をこっそり上げるなど、

昨日から、静かな反乱の気配を見せている

わが冷蔵庫のご機嫌やいかに。