8月28日、午前11時だが、

 来週9月5日には、『季論21』のシンポで

 とある「問題提起」をせねばならないのであった。

 午後2時から、場所はキャンパスプラザ京都である。

 シンポ全体のテーマは「『戦後史』をどうとらえるか」

 という大変に大きなものであり、

 9月12日の東京では「戦後史の時期区分をめぐって」

 5名の研究者が侃々諤々やるらしい。

 1週間前の京都は、その前段ということになるか。

 わが発言のテーマは「資本主義の発展段階と戦後経済史」。

 討ち死にまちがいなしの大テーマだが、

 顔から泥に倒れ込んでも、

 なんとか前に倒れたい。

 そして、できれば、わらの2・3本くらいは

 つかんでいきたい。

 40分程度の報告だが、柱をどういうものにしていくか。

 ①資本主義の生成から死滅にいたる生涯をとらえる方法

 (あるものの段階を論ずるのだから、

 当然、前提として、その生涯の見通しが必要になる。

 これについては、まずはマルクスの視点を出発点とするしかない。

 重視したい要因は社会〔人間〕の発達である。

 おそらくその核心は、資本の否定的側面の制御を軸にして、

 その肯定的側面を健全に成長させる力の発達である。

 それは「資本の真の制限は」という

 マルクスの「基本矛盾」の重要な内容になっていく)

 ②資本主義の生涯の中に段階をとらえる方法

 (生涯をつきすすませる原動力は「基本矛盾」だが、

 では、その段階を画する基準は何になるのか。

 ここでは「基本矛盾」の具体的な「展開」が問題になる。

 その内容は、資本の「自然成長的姿態」に対する社会の「強制」と、

 それによる資本の「成長」方向の

 新しい「計画性」〔制御〕となる)

 ③資本主義の世界的な発展段階と一国(日本)の関係

 (ここはレーニンの帝国主義把握が参考になる。

 資本主義の帝国主義段階の特徴を

 世界的な変化の中から導き出しつつ、

 同時に各国帝国主義の特徴がしめされていく。

 現代ではどうか。

 EU型の「社会的市場経済」の発展と、

 これに乖離する「新自由主義」的経済の一時的影響。

 世界構造の急速な変化と、これに立ち遅れる日本

 というのは中心的な論点のひとつになるのだろうが、

 その要因についても、社会〔人間〕の発達が

 基本のひとつになっていく)

 ④日本資本主義の発展と経済史

 (経済史というのは、経済だけの歴史でなく、

 経済に分析の焦点をあてた社会の歴史といったぐらいか。

 多様な社会のどこまでが視野に入るかの問題があるが、

 少なくとも国家の経済政策や、それを左右する

 社会的・階級的闘争を視野をいれずに、

 これを論ずることは不可能である。

 同時に、歴史をつくる社会〔人間〕の発達が、

 ここでも具体的に論じられねば。

 特に、人権・民主主義思想の成熟と、

 「脱植民地化」の実態が、今日的に重要か。

 そのような問題意識の上で、

 さて戦後の本質的な区分は

 どのような形で可能だろう)。

 いま、ホラが吹けるのはこの程度まで。

 あとは、泥をかぶって、倒れるだけ。

 とはいえ、この場合には、

 また立ち上がり、泥をぬぐいながら、

 再び前に進むことができる。