無題111

上は、今日の講演のために、急遽1枚追加したスライド。

最近、よくこの点について、意見を問われるので。

ここの話は、だいたいこんな感じ。

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「大企業が潤えば、いまに下々も・・・」という

「構造改革」の経済政策に、国民の強い抵抗が生まれている。

そこを、突破する「政治の力」を「資本」は求める。

強権であれ、懐柔であれ。

ただし、強権は、いつでも「復古主義」を求めるわけではない。

それは「資本」が生み出す論理でなく、

経済関係から相対的に自立した

日本の支配的な政治の思想がもたらすもの。

実際、06~7年の安倍内閣当時にも、

財界からは復古を当然視する声だけでなく、

侵略を直視すべきだという正反対の声も出されていた。

単純に「資本の論理」にもとづけば、

最大のマーケットである中国で、

「資本」にとって、安心して活動ができる

環境をつくることは極めて重要。

しかし、現実政治は、領土でも、「慰安婦」でも、

それに逆行する動きをつくっている。

そこには明らかに、ある種のねじれがあるわけで、

それを生み出しているのは、

侵略と植民地支配への反省を回避し、

反省を敵視さえする復古主義の思想の継承。

「改憲」といえば、日本社会では

いつでもこの復古の流れが前面に立つ。

経済、政治、思想、文化など、

社会は様々な諸層の関係の相互作用で成り立つが、

諸層は、いつでも整合的であるわけではない。

支配層内部にあってさえ、

「構造改革」の経済政策と復古主義は、

ねじれをはらんだ形で

相互に支え合わずにおれないものとなっている。

すべての政治の流れを

「財界主導」に還元するのは誤り。

相対的自立性があるというのは、

すべてを還元することはできないということ。

いびつなものはいびつなままに、

ありのままにとらえていくべき・・・・。