安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波現代文庫、2007年)を読み終える。

 教えられた点のいくつかを、勝手に要約しておけば次のよう。

 近代天皇制にかかわる主な観念は、①万世一系の天皇を頂点とする階層秩序、②祭政一致という神政的理念、③天皇と日本による世界支配、④文明開化のカリスマ指導者だが、これらはいずれも18世紀末以降のもの。

 織豊政権期にも、軍事力をテコにした主従関係の枠に入りきらない社会勢力を権力下におく手段として、天皇の権威が必要とされた。「天下」とは天皇の権威を背景にもつ全土支配のことであり、相対的に朝廷の地位は低下するが、徳川政権もなお天皇の権威による補足を不可欠とした。

 18世紀初頭には、①朝廷崇拝に傾斜して自らを権威づけようとする上方の勢力や、②将軍を国王とすることにより幕府の専制的支配を明確にしようとする動向もあった。

 18世紀末の藤田幽谷からの後期水戸学は、近世後期の危機意識をふまえて構築された代表的な政治思想で、「尊皇攘夷」「大義名分」「国体」といった語彙も儒教の古典によるのではなく、ここに始まるものとなる。これと平田篤胤以後の国学が、近代天皇制形成過程における思想史的脈絡の柱となり、維新政権の神政国家理念につながっていく。

 維新政権の実態は薩長と一部公家による権力の簒奪だが、その政治基盤の脆弱さを補うものとして天皇の絶大な権威が自覚的に求められた。そうして創造される権威が、15才で即位した明治天皇の実態とまるで異なる幻想であることは、周辺の政治勢力にとっては自明のこと。その呼称を天と同体のものとして「天皇」に確定したのも、その目的にそってのことであった。

 他方で、維新政権の成立は地方権力の空白を生み、そこに多くの一揆・騒動型の民衆運動を多発させる(1866~77年が最高揚期)。その中には「阿呆駄羅経」のように朝廷を「まやかし」と呼ぶものも含まれていた。天皇の権威確立の過程は、これらの意識や運動に対抗し、新たな社会的権威を民衆の中に浸透させていく過程でもあった。

 国会開設を求めた自由民権運動も、天皇制に対立するものではなく、反対に国会を天皇制を安泰にするものと位置づけていた。

 総じて近代天皇制は近代世界に参加しうる国民国家の形成に適合的な「発明された伝統」であり(その意味では必ずしも日本に特有のものでなく)、それは今なお多くの国民に支持され、タブーという形で「良民」を選別する社会編成原理となっている。

 なお維新以後、西欧の君主制に模して皇后の地位が急速に上昇するが、それは明治民法下での日本型の家父長的な「近代家族」を普及させる役割を果たした。