山岡亮一・大橋隆憲・坂寄俊雄・前川清治編『日本の顔・京都』(労働旬報社、1970年)を読み終える。

 副題は「たたかう蜷川府政と住民」である。

 「われわれは保守を敵だとは思っていません。保守と革新が相しのぎ合って、そしてこれを止揚して、よりよい政治体系をつくっていく。それがわれわれの立場なのです」。

 「革新と保守というのものは、ほんとうに保守が健全であるならば、いい社会をつくっていける条件の一つが出来るわけです」。

 実に教訓的な、知事自身による言葉である。

 「憲法県政」を望む「健全な保守」との連携が、強い意識をもって追求されねばならない。

 政策の基本についても、学ぶべき点は極めて多い。

 「農業で勝負する」、「獲る漁業より育てる漁業へ」、中小零細企業を組織し育てていく(行政自身が)、男女共学・小学区制・総合性の高校3原則と、基本は今にもそのまま生きている。

 1950年に蜷川府政を実現させた「民統会議」は、わずか6ケ月で解体される。しかし、蜷川知事は府民のための府政を支える力の統一を語り続ける。

 それが大きな実りを結ぶ一例が、政党・思想を越えて65年に結成された「憲法改悪阻止・京都各界連絡会」(京都憲法会議)。

 これが次第に全国各地に広まっていく。

 同じ65年、京都府医師会と京都府保険医協会が、蜷川府政継続のための「懇談会」を呼びかける。

 住民の暮らしと命を守るため、蜷川府政は医療の充実を重要視し、低医療費政策に苦しむ保険医を守る取り組みを、医師会とも手をとりすすめていた。

 今日の政治情勢と、情勢転換の可能性を考えるとき、こうした京都の闘いは、いかにも多くの教訓に満ちている。

 何より、その幅広い統一の精神に、多くがあらためてカラダとアタマを浸すべき。

 大いに学ばれるべき経験である。